極真の大和魂 極真会館6段 三好かずお

“不遇の”強豪 1990年4月発行「武道空手」より抜粋
   
三好一男さんの写真

「あの人が勝てなかったら、この世に神がいるという事も、努力は報われるものだという話もみんな嘘になると思いました…。それ程の稽古をしたんです。あの人は」

 心の底からはき出すように三好は語った。あの人とは、極真史上初の全日本大会3連覇を成し遂げた三瓶啓二現福島北支部長である。三好は、先輩である三瓶と同時代を生きる事によって極真空手の厳しさと奥深さを知ったという。少年時代から、ひたすら憧れの対象であった“空手”“極真”が、三瓶の生きざまに接して初めて現実となった。つまり三好はこの時、武道家として目醒めたのである。

 しかし、この言葉はある意味では三好の“不遇”を表すものでもある―。
 三好が極真に入門後、初めて全日本大会に出場したのは昭和52年、第9回大会である。極真空手は第1次戦国時代を迎え、後に極真の“黄金期”となった“三誠時代”の予感が漂い始めた頃である。
 かつてのベテラン勢の時代は終り、無限の可能性を秘めた若手がめきめき頭角を現してきた時代。そして中村誠(現兵庫支部長)と三瓶啓二が、極真の華麗なるステージに駆け登ろうとしていた。三好の全日本デビューは、そんな新しい時代の始まりの時だった。

 新時代の寵児となった中村、三瓶。しかし、後に3連覇という偉業を成し遂げる事になる三瓶は、ライバル中村の前に再三の苦汁を飲んでいた。第11回全日本大会から第2回世界大会にかけての2年間、三瓶にとってまさしく屈辱の時であった。
 恵まれた肉体と天性の格闘センスを持つ中村に対し、三瓶は血を吐く程の稽古量で対抗しようとした。今でも伝説になっている三瓶の猛稽古。悲壮感に包まれながらも極限まで自分を追いつめる三瓶を見て語ったのが、冒頭の三好の言葉である。
 そして、三好の“不幸”は、そんな“三誠時代”に自分の現役時代が重なった事である。

●通算成績
 第9回全日本大会3回戦
 第10回全日本大会5位入賞
 第11回全日本大会6位入賞
 第12回全日本大会ベスト16
 第13回全日本大会5位入賞
 第14回全日本大会4位入賞
 第15回全日本大会4位入賞
 第2回世界大会4回戦
 第3回世界大会4回戦

 三好の組手は一見荒々しく、かつ豪快であった。だからといってただ粗野なだけの組手ではない。かけ引き、間合いの取り方など、いわゆるインサイドワークも抜群だった。ただ、三好は何よも、“熱い闘志”を感じさせる選手として多くの人気を集めていた。
 現実の世界に“もし”の2文字はあり得ない。だが、“空手家”三好を考える時、もし三好が“三誠時代”とはずれた時期に全盛期を迎えていたら、三好は全日本の頂点を手にする事ができたと語る人々は多い。
  全日本大会および世界大会連続9回出場は三瓶に次ぐ金字塔である。そして三好の空手は、他の誰よりも、実戦空手、極真会館らしい“男振り”“武道精神”を感じさせてくれた。
―極真の大和魂―
 三好は黄金の“三誠時代“に隠れながら、極真の三好”としてもう一つの時代を創ったのである。



出席率トップを独走

練習の様子

 三好は昭和32年、四国・愛媛県新居浜市に生まれた。子供の頃から人一倍強さに憧れた三好は、中学時代、伝統系の某空手道場に通った。高校入学と同時に、三好は一冊の本と出会った。そしてこれが後の三好の運命を決定付けた。その本こそが極真会館、大山倍達総裁の「私の空手道人生」であった。
「もうこれで私の人生は決まった。決して大袈裟じゃなくて、自分は極真をやるために生まれたとさえ思った程、あの本は衝撃的でした。こうなったらのんびりしていられない。他の空手はやってられない。何とかして極真に入門したいと…。でも当時、極真の道場は四国でも4時間以上もかかる所にあって、通う事はできない。いやそんな事よりどうせ極真空手をやるのなら、本部しかないと思いましたから。絶対、大山総裁の直弟子しかない!って決めてたんです」。

 極真会館総本部入門、そして大山総裁の直弟子と心に決めた三好は、高校卒業まで耐える事にした。そしてそれまで、少林寺拳法を学んだ。当時、少林寺拳法は防具を着用しながらもより実戦的な稽古をする事で知られていた。三好は“極真への想い”をとりあえず少林寺の仲間と汗を流す事で発散させていた。
 極真本部入門という憧れを持ちながら、しかし地元に就職して堅実な生活をして欲しいと願う両親に対して、三好は我を通せる程強くはなかった。親想いの三好は、年老いてくる両親の顔を見るたび、“上京”の夢を口にする事ができなくなった。

 一人悩みを抱いていた三好は、いつしか地元の“デパート”に就職する事になってしまう。悶々とした日々を送っていた高校3年の冬の事である。
 そんな三好の胸中を察した父親は、「大学に行くなら」という条件で上京を許してくれた。決して空手の事は口にしないが、三好には、極真に憧れる息子の想いをかなえてやろうとする父親の優しさが痛い程よくわかった。
 昭和51年4月、三好は大学に入る“名目”で上京した。大学は国士舘、しかし大学の入学式より数日早く、三好は憧れの極真会館総本部に入門した。晴れて大山総裁の直弟子となったのである。

 住まいは、池袋、道場近くのアパートに決める。ちなみに三好は当時、極真に内弟子制度があるのを知らなかったという。道場に通って数ヵ月して後、内弟子制度を知った三好は地団駄踏んで悔しがった。一時は内弟子に入る事を考えた三好だが、「内弟子は白帯から苦労しているのに、色帯を取ってからノコノコ内弟子に入ったら、最初から頑張っている人達に失礼だ」と思い直して内弟子志願をあきらめた。“筋”を重んじる三好らしいエピソードである。
 さて、入門した三好はそれこそ毎日稽古に通った。朝9時の朝礼から2部の稽古が終わる午後6時まで、すべての生活が道場にあった。

「出席率は常時トップでしたよ。“努力賞”はいつも自分のものでした(笑)。黒帯を取るまでは絶対帰らないと誓ってましたから。極真で頑張れと私を見送ってくれた少林寺拳法の仲間に対しても裏切る事になりますからね。とにかく毎日稽古はした。当時の稽古はそりゃ厳しかったです。入門したばかりの頃から先輩方にはガッチリやられました。組手をやっていたら一瞬目の前が真赤になって、あれどうしたのかなって思ったら顔中血みどろだったり。でもあの頃は不思議と何でもなかったです。だってあの極真空手をやっているんだもん、こんなことは当たり前だと思ってました」。



檜舞台に連続9回出場

三好一男さんの写真

 三好の努力がかない、入門から1年少々で念願の黒帯を手にする事ができた。昇段に厳しく、普通4年から5年かかるといわれる程、極真会館の黒帯には価値がある。おそらくあらゆる流派の中で、最も取得するのに困難な黒帯が極真会館のそれではなかろうか。ちょうどそんな時、三好は三瓶と出会った。三瓶も、もともと本部所属だが、当時早稲田大学の学生だった三瓶は、大学のクラブでの稽古、指導に忙しく、ほとんど本部には顔を出していなかった。そんな三瓶が、全日本タイトル奪取に乗り出し、再び本部に帰ってきたのだ。三好は三瓶と同じく午前10時から始まる1部の稽古に出席していた。

 その後、三瓶と意気投合した三好は柳渡聖人(現岐阜支部長)ら同期の仲間達と特訓を開始した。本部での合同稽古、サンドバックなどを中心とした自主トレ、そして国立競技場トレーニング室でのウェイトトレーニング。三好らが行なったウェイトトレーニングの苛酷さは、今でも伝説にさえなっている程だ。

練習風景

 このように三好は“打倒 中村”に燃え、狂気すれすれの稽古に精を出す三瓶の影響を多大に受けた。
 前項で述べた“もし、三誠時代と違う時期に現役であったなら―”という記者の問いかけに対し、三好は躊躇する事なく次のように語っている。
「自分にとって、三瓶先輩と同時代を生きれたという事は、大きな財産だと思っています。ただ黒帯を取れればいい、そんな程度にしか考えていなかった自分が、極真空手の本当の厳しさ、素晴らしさを知る事ができたのも、三瓶先輩のおかげですから」。

 ともあれ、三好は第9回全日本大会から9年連続して極真の檜舞台を踏んだ。
 第10回全日本大会準々決勝、三瓶との激闘。
 第12回全日本大会、左足を骨折し、ギブスを付けながら闘い抜いた闘志。
 第3回世界大会、巨漢、ギャリー・クルゼビッチとの死闘…。

 三好はいつも、闘いの中から熱い感動を与えた。武道空手、逃げ隠れできない真剣勝負に、体ごとぶつかっていくその姿は、一種の悲壮感とともに究極の美学を感じさせてくれた。



高知に根付く大和魂

三好一男さんの写真

 現在、三好は四国・高知にて支部長の任に就いている。三好の出身地、愛媛に隣接した南国、高知である。坂本龍馬で知られる、質実剛健をもってする荒々しい太平洋の波に似た風土。切り立つ山々と海に生きる男達が築いてきた独特の息吹きは、まさしく三好の性格と一致する。
 昭和59年、支部長就任からすでに7年が過ぎた。現在では約10の道場を持つまで、極真空手は高知に根付いている。

 選手としての“現役”は引退した三好だが、武道家としてはもちろん、いまだ現役だ。今でも弟子達より、三好が一番稽古に精を出している。
一昨年は、自力、40人組手を達成して“四段位”を取得した。
「高知という、全く未知の土地に来て、道場を開く事になったんですが、今自分は最高に充実しています。まるっきり空手なんか知らない人達に、極真の素晴らしさを伝える事ができる。偉大な大山総裁が築いた極真空手、自分が虜にされた極真空手を一人でも多くの人に広める事ができる。最高に満足です。高知というのはとても小さい県です。でもみんな熱い情熱に溢れたところです。

 高知に来てから毎年、正月元旦の朝、道場生全員で寒稽古を行なうのが恒例なんです。観光で有名な桂浜で、海に向かって思い切り突きと蹴りを繰り出すんです。そのうち、元旦の朝は、桂浜を極真空手着で満杯にしてみせますよ。必ず!それまで努力精進。いやいや一生、自分は武道家として生きるつもりです」
 三好一男。新極真会にあって最も“大和魂”を感じさせる男である。今、三好は南国・高知で熱い血潮をたぎらせている。平成の武人、三好の武道人生は、まだ始まったばかりである。