三好一男師範が語る”幕末のヒーロー”の魅力。少年よ、龍馬を目指せ!

−1年ぶりに高知に来ましたが、やはりいつにも増して観光客が多いですね。

三好 『龍馬伝』のおかげでしょうね。地元の人たちも、大人だけでなく、ふだん大河ドラマを見ない子供たちまで盛り上かっていますよ。高知の人たちにとっても坂本龍馬は英雄ですからね。

−師範も龍馬には思い出があると聞きました。

三好 ありますねえ。26年前、大山倍達総裁の命を受け、極真未開の地・高知に支部を立ち上げると決まった時、読んだのが司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』でした。

−大長編小説ですね。

三好 龍馬の魅力にひかれて一気に読みましたね。取り巻く状況や年齢から自分と重ね合わせて共感したり、柔軟な考えや度量の広さにナルホドと感心して手本にしたり、私にとって「心に残る一冊」というところでしょうか。当時の私は大学を卒業し、本部の指導員をしていました。26歳でした。親にはいずれ故郷に帰ると約束していましたが、どうしても空手を続けたくてわがままを言わせてもらっていたんです。その後、故郷の愛媛にも支部をつくりましたが、26年間、住まいはずっと高知です。

−最初から一生ここでやっていくという気持ちだったのですか。

三好 もちろん、そういう決意でしたね。大山門下が一人もいない場所に行くのに、生半可な気持ちでは行けません。8年間、本部でお世話になった大山総裁から「高知に行け!」との命を受け、胸に極真の名が刺しゅうされた道着を一着渡されました。何よりズッシリと重かったですね。その時、死んでもやり抜く決意をしたんです。

−龍馬の魅力というのは、師範にとってどのようなものでしたか。

三好 地元では有名な話ですが、彼の幼少期を表わすのは「弱虫」「泣き虫」「甘えん坊」「いじめられっ子」「落ちこぼれ」‥‥‥と不名誉な言葉ばかりです。最初から強かったわけじゃない。それが乙女姉さんという土佐のスーパーウーマンに鍛えられ、「このままじゃいけない」と思い、剣術で己を磨いていくわけです。そして江戸へ出て北辰一刀流の門をたたき、免許皆伝を受けるまでになりました。でも、そんなに強くなったのに、あの幕末の動乱の時代、生涯ただの一度も人を斬らなかったのです。自分が弱虫でいじめられっ子だったから、人の痛みがよくわかっていたんでしょうね。強いだけでなく、やさしさや大らかさ ― 「人間力」とでも言うのでしょうか ― それで世界を動かしていく。武力では何も解決しないと、あの時代に知っていた。これはすごいことです。今、私たち新極真会が目指す人間形成を龍馬は地でいっていたということです。彼の最大の魅力ですよね。じつは、大山総裁もそんな方だったんですよ。

−怖い方ではなかったのですか。

三好 たしかに怖かったですよ。掃除をサボったりしようものなら、窓ガラスが割れそうな迫力で怒鳴られました。今考えてみれば、すべて自分の果たすべきことをやっていなかったりした時。人間なら怒られて当たり前のことばかりでした。でも怒鳴りはしても、私か本部で修行をしていた8年間、弟子に手をあげた姿を見たことがないんです。鉄拳制裁が当たり前の時代に、絶対にそれをなさらなかった。自分自身が指導する立場になって、あらためて心が広くやさしい方なんだなと思いました。
常々、総裁からは「抜いたらすぐ 斬れる日本刀のように、自分の体を極限まで鍛えておけ。しかし、その刀は決して鞘から抜くんじやない」と教えられました。龍馬と同じなんです。

−龍馬は19歳で上京し、北辰一刀流の千葉道場に入門しました。師範が極真の総本部に入門したのと同じ年頃ですね。

三好 一度しかない人生ですから、どうせなら世界で一番と言われる人の門下生になりたい。その人から黒帯をいただきたい。私にはそういう思いがありました。当時、日本屈指の千葉道場に入門した龍馬も、同じような気持ちだったんじやないでしょうか。ただ、龍馬の時代は、土佐から四国山脈を越えて江戸まで行くのに1ヵ月かかったと言いますから、半端な気持ちでは行けませんよね。それに土佐では上士と下士の身分差別が相当ひどかったそうです(※1)。この世の中を何とかしなければならない。そのためには腕力をつけるだけでは足りない。もっと他に方法があるのではないか、ということに彼は気がついていたんです。それが将来「日本を今一度、洗濯いたし申し候」という一文を生むんですね。

−当時の極真の本部には、腕に自信のある人たちが全国から集まっていたんですよね。

三好 ええ。初めて道場に足を踏み入れた時、そのクラスだけで100人くらいの道場生がいました。その頃、本部で黒帯を取得できるのは500人に一人と言われていました。一種独特の競争意識に満ちていましたね。私は、ここにいる人が全員やめても自分だけは残るぞ、そうでなければ田舎を出る時に見送ってくれた人たちに申しわけない、合わせる顔がない、という気持ちをいつも抱いていました。「石にかじりついてでも」という覚悟がないと残れなかったですね。

−大会に出場して成績を残すということは、あまり考えていなかったのですか。

三好 なにしろ黒帯を取ることで頭がいっぱいで、そこまでは考えていませんでした。大会など私にとっては夢のまた夢、という感じでしたね。高校の修学旅行に行くのをやめ、その費用で第1回世界大会を見に行きました。病欠などで旅行に行けなかった同級生と図書館に缶詰で自習をさせられたんですが、つらくも何ともなかったですね。見に行った大会は、そんな思いをはるかに超えて余りあるほどすばらしいものでした。強さ、迫力といい、スケールといい、空手というものに度肝を抜かれました。こんなにスゴい世界があるのか‥‥と。だからこそ、こんな大会を開ける極真で自分かどこまで通用するのか試してみたかった。愛媛ではすでに他流派で黒帯をもらっていました。でも、極真本部の数百人に一人という狭き門は、男として挑まずにはいられない魅力を感じるじゃないですか。龍馬だって名門千葉道場の熾烈な競争をくぐり抜けるのには、相当苦しいことがあったと思いますよ。私も経験しましたが、田舎から出てきたということだけで。"しごき"のようなものもあったでしょうし。そういう心や体の痛みを乗り越えて、やさしさや包容力という強さを身につけていったんでしょうね。

−精神修養のために剣を学んでいたのかもしれないですね。

三好 最初は強くなることが目的だったんでしょう。でも、修行を積んでいくうちに考え方は変わっていったんだと思います。そして、黒船を見に行って彼の世界観はひっくり返され、「剣で勝負する時代じゃない」と確信します。でも、剣術にかけていた自分はどうしていいのかわからない。そんなジレンマを感じている頃、龍馬は幕臣である勝海舟を斬ろうとします。実際に会って、海舟の人物の大きさに即座に「弟子にしてください」と跪きます。黒船で片目は開いていましたが、海舟が両目をはっきりと開かせてくれた。師と仰ぐ人物を得て、そして自分の目指すものが何であるか、はっきりと自覚したのです。私にとっては、大山総裁こそが勝海舟でした。


 
「自分のことだけでなく、仲間や後輩のことも考えて気合いを入れろ―」。厳しくも愛情あふれる指導で子供たちの能力を引き出す三好師範には、この高知から第二の龍馬を育てるという夢がある


−師範も総裁との出会いで、人生そのものが変わったんですね。

三好 それからの龍馬は水を得た魚のようです。たとえば、犬猿の仲と言われていた薩摩藩と長州藩に同盟を結ばせるという大偉業を成し遂げる(※2)。彼は情報やアイデアを豊富に持ち、人と人を結びつける、今で言うインターネットのような役割を果たしたと思うんです。力ではなく知恵で問題を解決していく。「柔よく剛を制す」という力を養えたのも武道で修行しだからでしょうね。

−たしかに、一般的なやさしさだけでは、あれだけの仕事はできなかったでしょうね。

三好 ただ、それだけの力を持ったために、逆に命を狙われることになってしまった。新撰組なのか、京都見廻組なのか、それとも明治新政府で主要なポストを狙っていた人が暗殺を企てたのか、諸説ありますが真実は闇の中なんですよね。もし殺されずに生きていたら、世界を相手にもっともっと大きな仕事をしていたんじやないかと思います。33歳という若さで亡くなってしまいましたが、日本で初めての商社をつくったり、海援隊を組織したり(※3)、日本で初めて新婚旅行をしたり(※4)、あの時代にブーツを履いたり、刀を差しながらピストルを持ち歩いていたりと、とにかく発想が自由で柔軟です。純粋な子供の心をなくしていなかったんでしょうね。

−三好道場では毎年元旦に、龍馬像のある桂浜で寒稽古をしているんですよね。

三好 もう26年続いています。総裁にいただいた一着の道着から、いつか桂浜を純白の道着で埋め尽くしてみせます、とお約束していますから。第1回目は昭和60年の元旦でした。私は59年の4月4日に東京から直接高知に入り、5月2日に三好道場をスタートさせました。

−支部が誕生した直後から続いているんですね。

三好 高知に入った時は自分以外に道場スタッフがいませんから、一人で入門ポスターをつくり街に貼って、いつかかってくるかもわからない電話をずっと待っていました。今のように携帯電話がない時代でしたから大変でした。そんな苦労のかいあって、少しずつ入門者も増えはじめました。いろいろな門下生を指導していくうちに、この高知から龍馬のような人物を育てたいという思いが強くなってきたんです。だったら、やっぱり桂浜だろうということで、寒稽古をはじめたんですよ。

−毎年、大勢の道場生が集まるそうですね。全日本大会副会長の中谷元衆議院議員も必ず参加しているとか。

三好 各テレビ局もかわるがわる取材に来てくださいます。今年もNHKの全国ネットで放映されたそうです。なぜ人が一番のんびりしたい元旦にやるんだ、と思うかもしれませんが、日本で最初に稽古することで門下生には「一番」にこだわってほしいのです。桂浜の上では龍馬像が太平洋に向かっています。視線の先にはアメリカ、そして世界があります。その「視線」を我々が受け継ぎ、子供たちに追っていってもらいたいと思っています。この場所で新しい年のスタートを切るというのは、新極真会三好道場にとっては意味のある、一番大切なことなのです。将来、子供たちが夢を追って高知を巣立っていった時、新しい世界でつまずき、自分を見失うこともあるでしょう。そんな時、故郷は自分を原点に戻してくれます。身を切るような寒さの中、桂浜の寒稽古をやり抜いた自分を思い出してほしいのです。きっと、もう一度がんばれるはずです。故郷とはありかたいもので、私もそうでした。龍馬だって、つらい時は土佐の青い海に思いをはせたはずです。よく「土佐の海はえいぜよ!」と話していたそうです。そうして自分自身をリセットし、元気を取り戻していたんでしょうね。

−稽古をしながら初日の出を迎えるというのは、いい思い出になりそうですね。

三好 道場の新年を飾る一大イベントですからね。私は夜中の3時に道場を出発します。桂浜に着いたら、でっかい焚火をします。これは我々にとって、戦に行く時の松明なんです。そして私は、桂浜の先にある竜神様に寒稽古の無事を祈ります。それが私の初詣なんです。5時に道場生集合。5時半に稽古を開始。7時すぎの初日の出とともに海に入ります。今年の気温はマイナス2度でした。そして、一人ひとりが自分の学業、仕事、あるいは病気に負けないようにがんばろうといろいろな思いを込めて、海の中で突きを繰り出します。私は必ず先頭に入ります。これは第1回の時から決めているんですよ。「率先垂範」をモットーにしていますから。海に入る時も一番に入る。あと何年できるかわからないですけどね(笑)。



恒例となっている三好道場の寒稽古。初日の出とともに海に入り、全員で突きを繰り出す
 
昭和60年に行なわれた第1回寒稽古の後、龍馬像の下で記念撮影。それから26年、このイベントは三好道場の名物としてずっと続いている

−少年部の子供たちは、どんな様子ですか。

三好 最初は寒そうにしていますよ。海に入るのを、お母さんに説得されている小さな子供もいます。でも、稽古が熱を帯びてくると体が温まってきますから、海に入る頃にはピカピカの笑顔で生き生きしています。そんな元気なムードで稽古ができるのも、龍馬が見ていてくれるからだと思うんですよ。ふつうの海岸ではそうはならないでしょうね。

−浜に理念があるような、独特な雰囲気ですよね、桂浜は。

三好 そうなんです。先ほども申しましたが、龍馬は「弱虫」「甘えん坊」「いじめられっ子」というマイナスからのスタートでした。それが国を動かすほどの人物になっていった。新極真の子供たちにだって、無限の可能性があるはずです。あきらめないでがんばれば、龍馬のようになれるかもしれない。いえ、なれるはずなんです。そしていつか龍馬のまなざしを持って、日本中を、世界中を駆け巡ってほしいと願っています。大山総裁も、若いうちはどんどんチャレンジしたほうがいいとおっしゃっていました。とくにユース世代の選手たちには、どんどん世界に出て行ってもらいたいですね。

−実際、桂浜に立ってみると、大きな志がわいてきそうな気がするから不思議です。

三好 おそらく龍馬もここに立って太平洋を見ながら、大きく伸びやかな心を育んだと思うんですよ。そんな心を新極真の子供たちにも持ってもらい、大きく羽ばたいてほしいですね。私はよく思うんですよ。大山総裁もそうですが、新極真の緑健児代表も龍馬に似てるなと。一度会った人は、みんなファンになってしまうような明るくさわやかな力強い魅力がありますよね。うつむいていた人も、泣いていた人も笑顔になるような前向きな気分にさせてくれる。野球界なら長嶋茂雄さん、空手界なら緑代表しかいないんじゃないでしょうか。だから、緑代表がトップにいる新極真会が日本の武道をリードしていかなきやならないと思うし、リードできる唯一の組織だと思うんです。それには、サポートする我々もしっかりしなきやいけない。とくに私は、未来を担うユースというセクションを預かっていますから、責任重大です。

−龍馬が関わった明治維新というのは、文字通り世の中を新たにしていくムーブメントだったと思いますが、新極真会の「新」という字も、新しい時代に向けて空手界をリードしていくという志の表われですよね。

三好 新極真会という名前には、まさに「空手維新」という覚悟を込めているんです。そのくらい腹をくくって、みんなで立ち上がりましたから。後進のために、新極真会というすばらしい組織の礎になろうと思っています。我々が大山総裁から引き継いだものを、若い人たちに継承していかなければならない。同時に、龍馬が新しい時代に向けて疾走したように、つねに先を見て進化していかなければならない。古き伝統を守りつつ、新しいことにもアンテナを張り巡らせる、「温故知新」です。ヨーロッパでも、ロシアでも、アフリカの果てまでも、日本文化の空手はすばらしい、新極真会はすばらしいと言われるようになるまで、みんなで力を合わせてがんばっていかなければならないと思います。


※I 上士は、関ヶ原の戦いの後に掛川から入国した山内家の家臣。下士(郷士)は、もともと土佐に住んでいた長宗我部氏の家臣。出身が違うこともあり、土佐では他の藩にない厳しい差別があった。「上士になければ人にあらず」と言われるほどで、下士は服装まで制限されていた。龍馬は下士の家に生まれた。
※2 同じ倒幕の思想を抱いていながら敵対していた薩摩藩と長州藩が、龍馬の仲介により6ヵ条の同盟を締結。それにより、時代は倒幕→新政府樹立へと一気に動いた。
※3 龍馬が中心となって長崎・亀山につくられた結社が「亀山社中」。その後身が「海援隊」。倒幕を目的とした活動を行ないつつ、物資の運搬、軍艦や銃器の購入あっせんなども行ない、「日本初の商社」と言われている。
※4 京都の寺田屋で刺客に襲われた龍馬は、西郷隆盛のすすめで、温泉で傷をいやす目的も兼ねて鹿児島の霧島を旅した。妻のお龍も同行したことで、これか日本初の新婚旅行と言われている。


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