今から思えば空手との最初の出会いは、小学校六年生の時でした。当時、担任の先生は体育の授業に空手着に黒帯を締めて私たち生徒に校庭で空手を教えていました。当時は体育館がなく雨天時は教室や廊下で腕立て伏せや腹筋をよくさせられました。そして、何か悪さをしたり文句を言おうものなら口よりも、手よりも早く蹴りが飛んで来ていました。その後、中学卒業式終了後に憧れのカツオ一本釣漁船に乗りこの時から海での生活が始まりました。その後、長期航海に憧れ遠洋マグロ漁船に転向、そのマグロ船時代に映像として初めて極真空手を見てそのすごさに衝撃を受けました。当時の池袋総本部での組手や自然石割り、吊しブロック割りなど、その中でも上半身裸で例えて言うならロボ・コップ?のような胸板と腕で角材四方割りを行っていたのが当時の三好師範でした。特に鋭い鮮やかな後蹴りはその後の私が目標とする技の一つでした。同じ頃に全日本大会の録画ビデオも見ました。大会途中からの映像でしたが今でも印象に残っているのは対戦を終え十字を切りながら下がる当時の木元師範の血に染まった道着を見て恐怖を感じたことを覚えています。それから数年後に地元、宿毛で極真空手のポスターを見てすぐに入門、30才の時でした。しかし実はその時次の遠洋航海の日程が決まっていて2週間後には出航する予定でした。当時の指導員の先輩は、「それなら来週、中村で合同稽古がありその時に高知支部長の三好師範が来られるので一度お会いして見てはどうですか?」と言って頂きその時初めて三好師範にお会いし、そして稽古では直接指導して頂き手本として突く拳や蹴りの迫力に圧倒されました。そして稽古を終えて、三好師範から声を掛けて頂き「基本だけでも出来る限り練習して覚えて、また航海を終えたら稽古に来てください」と言っていただいた事は今でも嬉しく感謝しております。その後、船上では着る機会のない極真の道着を船に積み込み出航。当時は皆が寝静まった頃を見計らって夜中にこっそりと起き、波しぶきを浴びながら稽古をしていた事もありましたが今思えば私にとってそれらも必要な体験だったと思っています。
今回、昇段審査に挑戦するにあたって今から丁度一年前、二級から一級に昇級する事ができました。その時、三好師範から「次に機会があったら昇段審査を受けてください」という言葉を頂き、いつでも受審できる身体作りをと思い仕事の合間に出来る限りの事はやって来ました。山口先輩から審査日決定の連絡を頂き受審を決めたのは審査の10日程前でした。今回受けなければスケジュール的に次はいつになるかわかりませんでした。新極真の道を目指す者にとって避ける事の出来ない昇段審査、審査の前日朝から今まで体験した事のない緊張と不安で身体がフワフワと浮いた状態が審査当日まで続いていました。さて、審査当日、基本・型・移動・補強と続き息は上がったもののなんとか進む事ができました。そして最後の10人組手では4人目が終わった直後「最後までやれるのだろうか?」と一瞬不安がよぎりましたが、「ここまで来たらもうやるしかない!」と自分に言い聞かせ「8人目!」という三好師範の声が聞こえてから後の記憶が途切れており、とにかく前へ前へという気持ちだけはあったように思います。結果なんとか10人組手をやりとげる事ができましたが、ここまで来るには25年5ヵ月を要しました。
私には今、遠くかすかに新極真の門が見えてきたように感じます。そして、これからさらにその門に近づき前に立ち潜る事が出来るように努力、精進して参りたいと思います。
今回、三好師範には受審の機会を与えて頂き、また昇段をお許し下さりありがとうございます。ここまで導いて頂き、また仕事上ほとんど道場に出る事ができない私に色んな面で配慮して頂き本当に感謝いたしております。そして、今日まで宿毛支部を支え守って来てくださっている山口先輩には今回の昇段への後押し、道筋を付けて頂きありがとございます。そして10人組手の相手をしてくれた中村支部、大方支部、佐賀支部、宿毛支部道場生の皆さん、また10人目の相手をしてくれた筒井さん、そして大きな声援を送ってくれた少年部及び一般の皆さん本当にありがとうございました。
押忍
新極真会 高知宿毛支部
三好道場門下生 山下八百三
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